神は親に子どもを育てる責任を与えています。しかし、残念ながら多くの親はその責任がどのようなものなのかを正しくみことばにそって理解していないように見受けられます。
現代の社会には、子育てに関する情報が氾濫しています。一般主婦から児童心理学者や教育者等の専門家に至るまであらゆる人々が、「子育てとはこのようにするべきだ」と自分たちの意見を世の親たちに勧めています。しかし、親がしなければならないこと、親の持つべき態度といった根本的な部分において、これらの意見は一致した観点をもっていません。いったい親はどのような責任を持っているのでしょう。聖書は何を私たちに教えるのでしょう。

神は私たちが知らなければならない大切な原則を教えています。親はこれらの原則の存在を忘れてしまっていることが多いのが現状です。しかし私たちがそれらを覚えて実践していくときに、親として神に喜ばれる者となることが出来るでしょう。

原則1:: 子どもは祝福であって、困難ではない
みことばは子どもたちが主からの贈り物であることをはっきりと教えています。神は子どもを祝福として備えてくださったのです。それゆえに、子どもは喜びであり、私たちの生涯がより充実し、幸福に満ち、意味を持ち、満足を得るものとなるために主が 与えてくださったのです。親であることはすばらしい賜物なのです

聖書は神が私たちに子どもを与えることを教えています。創世記4章にあるエバの言葉にはじまり、セツの誕生においても(創世記 4:25)、サライの言葉を見ても(創世記 16:2)、イサクの誕生においても(創世記 21:1)、リベカがみごもった記事を見ても(創世記 25:21)、それらすべての箇所で、子どもを授けるのは神であることをはっきりと認めています。特にヤコブの子どもたちに関して創世記の記事を見るときに、神が祝福として子どもを与えておられることをヤコブの妻たちが理解していたことを知ることが出来ます。

神の恵み深い計画により、子どもたちが与えられることによって、両親には喜び、幸福、満足、充実、そして愛がもたらされるのです。詩篇 127:3-5 は、こう私たちに告げます。

「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若いときの子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、 門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」

神の計画を見るとき、子どもたちは困難としてではなく祝福として与えられていることが分かります。多くの親は、子供が生まれてくるとき彼らを祝福として喜びます。しかし子どもたちがこの世の荒波にさらされ、正しい保護なしに生きるならば、彼らは間違いなく親の心を苦しめる者になるでしょう。祝福として与えられた子どもたちを、喜びに満ちて私たちは育てる必要があります。それが二番目の原則です。

原則2 :: 子育ては喜びであって、重荷ではない
本来子育ては背負わなければならない重荷ではなく、楽しむべき特権です。もし神が子どもを祝福として与えてくださっているならば、子どもを育てることはその祝福の延長であるはずです。子育ては神様が与えているシンプルな原則を、親が従順に成し遂げることを怠るその度合いに応じて、困難なものになっていきます。神が与えている責任を親が全うしないときに、親は子育てに付随する神からの祝福を捨てているのです。それによって 神が願っておられない重荷を親は背負うことになるのです。親として、子どもの監督者として、神が委ねてくださった責任をすべて放棄するならば、間違いなく私たちの人生は痛みと悲しみで満ちたものとなるでしょう。逆に、主の教育と訓戒によって子どもを育てるならば、そこには喜びと楽しみが満ちあふれるでしょう。
子育ての中に何一つ嫌なことがないというわけではありません。子どもを罰しなければならないことを心から喜ぶ親はいないでしょう。子どもが叱られることを嫌がる以上に、親は子どもにむちを与えることに痛みを覚えるのです。しかし、このよう叱責の時も、私たちが神の命令に従順に従っていくとき、喜びを生み出すものであることを聖書は教えます。 箴言 29:17 は、「あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える」と教えるのです。
神は子どもを育てるという責任の中に、ほかでは見いだすことの出来ない喜びを埋め 込んでくださっているのです。その喜びは私たちが神の原則に基づき、子どもを育てていくときにのみ得ることの出来るものなのです