エペソの手紙6章1節でパウロは、「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。こ れは正しいことだからです。」と教えています。ここで使われている「子どもたち」という単語は、子ども全般を指す言葉で、誰でも親の責任または保護の下にある者に、親に従うという責任があることを教えています。エペソ5:21の「互いに従いなさい」という命令は神に喜ばれる家族関係の原点にある原則ですが、特に子どもたちは親に従うということを直接的に命じられているのです。
パウロは子どもたちに、「従順であれ」と命じています。この「従順」という言葉にはどのような意味があるのでしょう。ここで使われている動詞は、2つの言葉からなる合成語で、「聞く」という動詞と「~の下」という前置詞から成り立っています。つまり、子どもたちは、両親の権威の下につき、その言葉をしっかりと聞く(そして行う)ということが命じられているのです。
興味深いことにこの動詞は、5:21 で使われている動詞とは違う単語です。5:21で使われている動詞は、自ら進んで相手よりも自分を低い者とし、自分の意志を強制するのではなく、相手に従っていくという意味を持つ言葉です。そしてこれは家族の中で、またあらゆる人間関係においてクリスチャンが行っていくべき責任なのです。しかし、ここでパウロは子どもたちに、特に親の言葉に耳を傾け、聞いたことを積極的に行っていくように命じているのです。
現代の日本で「親の権威の低下」を感じている人は多いでしょう。子どもは各家庭における中心的存在となり、王様として君臨していることが多くなりました。親が子どもに言うことを聞かせるのではなく、子どもの言うことに親が聞き従うような家庭が増えています。 小さいときから自立させ、親の意見に耳を傾けるのではなく、自分の意志ですべてを決めても良いとする環境が求められています。どのような価値観を持ち、どのような道徳観を持ち、どのような宗教観を持つかは、子どもの自由であり、親の意見は「押しつけ」という言葉で敬遠される、このような状況を良しとする社会に私たちは今生きているのです。 しかし、聖書は私たちに親の権威の下、子どもたちが聞き従うことが正しいのだと教えるのです。
さらにパウロの言葉を見てみると、子どもの親に対する従順は、盲従することではなく、しっかりとした動機に基づいていることが分かります。パウロは旧約聖書の言葉を用いて、「あなたの父と母を敬え」(エペソ 6:2)と言います。これは、親の責任下にある子どもだけでなく、成熟し独り立ちした子どもたちにも適用されるべき言葉です。「従順」という子どもに与えられている責任を果たさなければならない時期(親の責任化にある時期)を終えた後も継続して持ち続ける態度を示しているとともに、子どもが親に従うということが親に対する尊敬のゆえであるということを教えているのです。この尊敬という正しい態度なしでは、どれだけ子どもが表面的に従順であっても、その従順は決して神に喜ばれるものではないということを私たちは理解しなければならないのです。
子どもは時に「私の親は尊敬できる人物ではない」と訴えるでしょう。確かにすべての親が「尊敬に値する人」ではないのも事実です。しかし、パウロは「尊敬できる人ならば尊敬しなさい」とは言っていません。神が与えた「親」という役職のゆえに、尊敬することが求められているのです。子どもは親を敬わなければなりません。そして親は子どもに親を敬うことを教えなければならないのです。