日本人にとって神とは、偉大な力を持ちながらも、私たちの実際の生活とは関係のないものとして考えられていることが多くあります。尊敬の念を抱くことはあっても、実際に神に頼ることはほとんどなく、この世界は神なしでも動いていくものだと考えている人がほとんどでしょう。神に頼る者は弱い者であり、本当にせっぱ詰まった状態の時だけ私たちは神に手を合わせ、自分の必要を満たしてくれるように願うのです。このような神は遠くから人間の世界を眺め、手を出したいと願っていてもなかなか行動を取ることができず、人の狡賢さに翻弄され、この世で起こる様々な出来事に対してどうしてそれが起こったのだろうと頭を悩ませるような神です。しかし聖書が教える神はこのような神とは大きく違います。
聖書は「すべてのものが、神から発し、神によって成り、神に至るからです 」(ローマ11:36)と告げます。この箇所でパウロはとても大切なことを私たちに教えてくれています。はじめにパウロはすべての存在するものが、「神から発している」と記します。パウロはこの世に存在するすべてのものが神に起源をおいているものであり、神に創造されたのだと言っているのです。それだけでなくこの神に造られた被造物すべては、「神に至る」と言います。これは神の目的のため、神の栄光のため、神の喜びのためにすべてのものが存在していることを教えています。つまり、すべてのものは神が創造され、神のために存在するのだと言っているのです。

けれどもここでパウロが言っていることはそれだけではありません。パウロは「すべてのものは、神によって成っているのだ」と言うのです。ここで使われている「よって成る」と訳されている言葉は、「通して」という前置詞です。この言葉を用いてパウロが教えていることは、始まりがどうであったのか(神から発し)でも、終わりがどうであるのか(神に至る)でもなく、現在神がどのような関係を被造物ともっているのかということについてです。パウロは、被造物はすべて神を通して現在存在しているのだというのです。神なしではこの世は存続することはないのです。

聖書の教える神は、遠くから私たちを眺めているような方ではありません。私たちの存在の起源は神にあり、私たちが今生きていることも神の力であり、そして私たちが存在する目的、その生涯の行き着く果ては神のもとであるのです。

このようにすべてのものを創造しそれを支えている神は、被造物に助けられて存在するようなことは決してありません。それゆえにパウロはアレオパゴスで次のように語っています。

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」使徒17:23-25

神はその存在において完全に自存される方です。何らかの形で他者に依存する部分が一切ないのが聖書の神です。この方はすべてのものをご自分でご自分のために創造され、すべてのものをご自分の力で保ち続けておられる神なのです。このことは私たちに大切な真理を教えます。それは、神がこの世を創造されたのは神が被造物を必要とされていたからではないということです。私たちは神と人間の関係を考える時、まず聖書の神が自存の神であることをしっかりと理解する必要があります。そしてこの真理は同時に私たちがどのような存在であるかを教えるものでもあるのです。