福音主義の教会は、聖書の無誤性、権威、十全性を信じるという教理声明を持っているはずです。しかし、本当にそれを心から確信し、真の神のことばとして聖書を語る教会は少ないというのが悲しい現実です。
聖書の著者たちが言わんとしていることを無視し、特定の聖句や一部の単語を文脈から抜き出し、本来その箇所が教えていることとは全く無関係なことを語る時、そのメッセージは神のみことばの解き明かしではなく、説教者の個人的な意見でしかありません。
人々の興味を引くような話や感動を与える話をしようと努めて、そのためには聖書の内容を語るのではなく、もっと現代人に適用することができる話をしなければならないと考えるならば、私たちは聖書の権威や十全性を本当に確信しているのかどうかを考えなければなりません。
聖書は現代の私たちには無関係で的外れな書物ではありません。聖書を正しく解き明かす時、そこには現代に生きる私たちが主の前に正しく生きて行くために必要な真理を知ることができるようになるのです。
講壇からどのようなメッセージが語られているかによって、ひょっとすると私たちはその教会が聖書をどう理解しているのかを知ることができるのかもしれません。教理には同意していたとしても、本当に信じているかと問われる時、その答えに確信がないならば、聖書を正しく解き明かそうとする意欲も必然的に薄れていくでしょう。聖書が私たちの生涯に十分であるという確信がなければ、みことば以外のあらゆるものから、「役に立つもの」を探してそれを語るようになるでしょう。聖書の権威を疑うならば、主の命令を絶対的なものとして語ることも、罪を「罪だ!」と明言することもしなくなるでしょう。聖書の無誤性を疑うならば、聖書を教えることの必要を感じなくなり、他の書物と同様な扱いをすることになるでしょう。
聖書が神のことばであるならば、教会はみことばを語らなければなりません。聖書が今も「生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する」ものであるならば、私たちに必要なのは、このみことばを正しく解き明かす教会なのです。
当学院の何よりも大きな願いは、聖書を正しく解き明かす働き人を訓練することです。また、聖書が正しく語られることによって一人ひとりの聖徒がみことばを正しく知り、ますます主に似た者、成熟した信徒となることです。そのための学びに関心のある方は是非ご連絡ください。