「多くのクリスチャンは神秘主義的な聖書の読み方をしています。感情的な応答をすることが必ずしも間違っているわけではありませんが、主観的な読み方では正しい解釈にたどり着かないことを覚えていなければなりません。『神が語ってくださった』という前に、本当に神がそのことをその箇所で教えているかどうかを私たちの知性を用いて、しっかりと考えなければならないのです。」これは日本聖書学院の解釈学のテキストに出てくる一文です。

残念ながら多くのクリスチャンは主観的な判断で聖書の箇所を理解する傾向があります。これは救われたばかりの霊的に未熟なクリスチャンに限定された話ではなく、成熟しているはずの人々にも見られることです。聖書に出てくる特定の人物に語られた約束を、主が直接自分に語ってくださっているかのように思いこんで、自分の願っていることをあたかも主のみこころであるかのように理解してその願望を正当化するのは、みことばを自分の都合のいいように利用していることに過ぎません。

私たちに必要なのは、聖書を読んで私たちがどのように感じたのかという文脈を無視した主観的な理解ではなく、聖書がその文脈の中で何を語っているのかという客観的な理解です。「私はこの箇所を読んで、こう感じました!」というのは、その理解が真理に沿った正しい理解であるかの判断にはならないのです。

もしみことばの真偽を判断する基準が客観的なものではなく主観的なものであるならば、あらゆる理解は正しい真理になってしまいます。このような主観主義は多くの間違った教理を生み出す土壌であり、聖書の乱用以外のなにものでもありません。私たちは神が求めることを正しく知るために、正しく聖書を読み理解することを学ばなければなりません。そして学んだことを生きて行くことに努め続けなければならないのです。