「クリスチャンである」ということはどういう意味なのでしょう?この問いに正しく答えることは何よりも大切なことです。ある人はクリスチャンとは、キリスト教徒のことだと考えるでしょう。確かに私たちはキリスト教徒のことを指して、クリスチャンという言葉を使います。仏教徒やイスラム教徒をクリスチャンと呼ぶことはありません。では、このキリスト教徒とはどのような人物を指しているのでしょう?
代々キリスト教の家系に生まれ育った人、教会に通っている人、洗礼(バプテスマ)を受けた人、キリストを信じた人、などなど、様々な回答が返ってくるかもしれません。ではこれらの人たちが全て、クリスチャンなのでしょうか?「クリスチャンの家庭に生まれ育ったから、クリスチャンである」という考え方は、ある意味日本人的な考え方なのかもしれません。事実「家が仏教だから」という理由で、「私は仏教徒です」と考えている人たちが日本にはたくさんいます。しかし、クリスチャンの家庭に生まれ育ったからといって、その人が聖書が教える救いを得ているかと問われればその答えは「NO」です。ちょうどすべてのユダヤ人が信仰者でなかったように、家系が信仰を決めるわけはないのです。では教会に通っているからクリスチャンなのでしょうか?確かに教会に通うことは良いことかもしれませんが、その人が正しい動機で教会に来ているかは全く別の問題です。ある人は単なる習慣として教会に来ているかもしれませんし、別の人は社交の場の一つとしか考えていないかもしれません。日曜日だけクリスチャンの顔をして教会に来ても、平日は一切、神を讃え、主を喜び、救いを感謝して、従順な歩みを行っていこうとしていなければ、それは表面的な行為でしかありません。教会に来て礼拝に参加しているかもしれませんが、それは礼拝を捧げているのではないのです。心の伴わない礼拝を神は決して喜びも、受け入れもしません。そのような人もやはりクリスチャンと呼ぶことはできないでしょう。洗礼を受けていたとしても、それで救いが確定するわけではありません。洗礼は人を救う行為ではなく、救われたことを証しする場であり、主の命令に従順に従っていくことの証しの時です。洗礼を受けていても、主の教えを拒み、不従順な生涯を送っているならば、その生涯が救われていることを否定する証しとなっていることに私たちは気付くべきでしょう。信じたと思い込んでいても、実は信じていない人もいるのです。その人たちは一時的にクリスチャンになったのではなく、信仰から離れてしまったのでもなく、ましてや救いを失ったのでもなく、正しく信じていなかったがゆえに、はじめからクリスチャンではなかったのです。
クリスチャンという言葉は「小さなキリスト」という意味があります。アンテオケという町でキリストの弟子たちが人々からそのように呼ばれるようになりました(使徒11:26)。彼らは「弟子」であったがゆえに、師であるキリストの教えを学び、理解し、実践して生きようとする者たちでした。彼らはキリストがこの地上で歩まれたように歩んでいこうとする者たちであったがゆえに「小さなキリスト」と呼ばれるようになったのです。ヨハネが言うように救われた者たちはキリストが歩まれたように歩むものです(1ヨハネ2:6)。キリストの命令を守り(2:3)、「キリストが清くあられるように、自分を清くします」(3:3)。聖書の教えが真理であることを確信しているがゆえに、その教えに留まります(ヨハネ15:10)。聖霊が内住するようになるがゆえに、そこには必ず変化がもたらされるのです(2コリント3:18)。
残念ながら、クリスチャンだと言う人たちがすべて真のクリスチャンであるわけではありません。クリスチャンであると言いながら、みことばに飢え乾きを覚えず、神を慕い求めることをせず、利己的な生涯を送り続け、神に逆らっていても平気でいることができるような人たちは、その生き方をもって自分の信仰告白を否定しているのです。家系も、教会に通うことも、洗礼も、また信仰告白も、それが人をクリスチャンにするわけではありません。生きた信仰だけが人を救うのです。この生きた信仰は、私たちを神に喜ばれる者へと変えていく信仰なのです。
クリスチャンであるということは、私たちがキリスト者として生きることを意味しています。神を愛するがゆえに、神が語った真理を通して聖められていく者です(ヨハネ17:17)。いつの日か愛する主と対面するその日まで、日々変えられ続けるのがクリスチャンなのです。「日本のクリスチャン寿命は三年である」と言われる中で、私たちは誰が本当に救われているかを真剣に問わなければならないでしょう。なぜなら本当のクリスチャンは主の教えに留まり、教会に留まり続ける者だからです(1ヨハネ2:19)。そしてこれは人を吟味することではなくて、自分自身の信仰を吟味することから始まるのです(マタイ7:5)。