五千人の給食の後、次のような言葉が聖書には記されています。「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、 この方こそ、 世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:14–15)
この翌日、群衆はイエスがいなくなったのを知りイエスを捜しました。ガリラヤ湖の対岸まで主を求めてやってきたユダヤ人たちに対して、イエスは非常に厳しいメッセージを語られます。主が誰であるのかを認め、その方の御業のみに信頼を置くことが要求されたとき、イエスの「弟子」たちはその言葉を受け入れようとはしませんでした。
彼らはイエスの偉大な奇蹟に心惹かれていました。「この方なら私たちを異邦人の支配から解放してくださる」と考えていたのです。彼らは切に「王」を求めていました。しかし彼らの求めていた王は、自分たちの願望を叶えてくれる、自分に利益をもたらせてくれる「王」だったのです。
ここに登場するユダヤ人の姿と現代日本の教会の姿には重なる部分があるように思います。キリスト教会は主が求める要求を人々に語ることなく、むしろ彼らの要求がいかに主によって満たされるのかを教えています。その結果、教会にはこの日のユダヤ人のように、イエスが自分たちの願いを叶えてくれるだろうという期待だけで、主の下に集まる人たちが多くいます。彼らは、確かに一時的にイエスの後をついて行こうとしますが、それはあくまでも自分の願望が満たされるためであることを、後に必ず証明します。
「弟子」と呼ばれていたユダヤ人たちは、イエスの要求と主が与えようとするものが自分の願望と異なることに気づくと、イエスの下を去って行きました。なぜなら彼らは真の意味でイエスを信じ、従う者ではなかったからです。同じように、現代の教会にも自分の願望を叶えてもらうために「クリスチャン」になっている人たちがいます。彼らもこの日のユダヤ人と同様に、自分の願いとイエスの要求の違いを知る時に、イエスから離れて行きます。
しかし、本物の信仰を持つ者たちは、「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」と言って、主に従い続ける生涯を全うするのです。