「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」( Ⅰペテロ3:18)

ペテロはこの短い節の中で、キリストの死の性質とその目的を明確に記しています。ここでペテロはキリストの死の目的が「私たちを神のみもとに導く」ということだと告げています。キリストがこの世に来られたことも、罪のない生涯を歩まれたことも、十字架にかかられたことも、死んで、葬られ、そしてよみがえったことも「私たちを神のみもとに導く」という目的のためになされたというのです。私たちが神の恵みのゆえに主を信じる信仰によって救われるのは、キリストが「私たちを神のみもとに導くため」だと言うのです。この「導く」という動詞は、王への謁見を管理する王室の役人の働きに対して用いられるような言葉でした。つまり、キリストの贖いの業は、赦された罪人を天におられる「王の王」である「神のみもとに導く」という目的によるものなのです。

実はここでペテロが語っていることこそが福音を「良い知らせ」とする真の意味であることに私たちは気付かなければなりません。そうです。福音を良い知らせとするのは、天国に行けることでも、罪が赦されることでも、裁きから解放されることでも、永遠のいのちを得ることでも、平安を得ることでも、神が共にいてくださることでもないのです。これらは確かに私たちが福音を信じるときに与えられるものですが、これらはあくまでも福音の副産物でしかないのです。何よりもすばらしい、福音を「良い知らせ」とするキリストの救いの御業の真の目的は、「私たちを神のみもとに導く」ということなのです。

もし福音を信じていると言いながら、神を自分の生涯の最大の喜びとしていないなら、ひょっとすると私たちは真の福音を信じていないのかも知れません。福音に付随する様々な祝福は、キリストを信じることのない人々も切に願い求めることがらです。もし私たちが未信者と同じものを切に求めて生活しているならば、私たちは福音を信じていない人たちと何ら変わりのない者であるかも知れません。しかしペテロは告げるのです。キリストは私たちを「神のみもとに導くため」に死なれ、そしてよみがえられたのだと。

天国は興奮に満ちあふれた場所です。しかしそれは私たちのために用意された豪邸のゆえでも、宝石に包まれた美しい町のゆえでも、透き通った金でできた道のゆえでもありません。また苦しみや悲しみが一切なくなるからでもありません。私たちが完全な状態になることでも、永遠のいのちを得るからでも、裁きを受けないからでもありません。天国が興奮に満ちあふれた場所であるのは、神がそこにいて、私たちが神の栄光をはっきりと見ることができるからなのです(黙示録21:3-4)。神と共にいることができる、これこそが何よりもすばらしい、興奮に満ちたことであり、それ故に「神の人」は皆、その人生を後にやって来るものに目を向けて生きていたのです。アブラハムやその息子たち、モーセやその後に続く旧約時代の敬虔な人々はやがて来る、神と共に過ごす生涯に焦点を当てて生きたのです。だから、新約時代の信徒たちは、同じように「イエスから目を離すな」(ヘブル12:2)と命じられているのです。

パウロは「私にとっては、生きることはキリスト」(ピリピ1:21)と言いました。なぜなら彼の生涯はキリストにのみ、完全に焦点を当てた人生だったからです。そして「死ぬこともまた益です」と続けました。なぜなら、彼はキリスト以外のすべてを失うことこそが究極的利得であることを知っていたからです。パウロがこう言うことができたのは、彼に唯一必要なものは神であることを知っていて、そして彼には神以外に欲するものがなかったからなのです

いったいなぜ福音は良い知らせなのでしょう。福音のどこが良い知らせなのでしょう。その答えは、「福音が私たちを神のもとに導く」ということにあります。福音は私たちと神との関係を修復し、神と私たちが永遠の交わりを持てるようにするからです。神との間にあった深い断絶の谷は、キリストの血によって埋められました。そして今私たちはこの福音のゆえに、自由に神のもとに来て、神の栄光を見つめ、満足することができるようになったのです。

福音を「良い知らせである」と確信しているならば、クリスチャンは神のみもとにいることができることを何よりの喜びとし、感謝しているはずです。神との交わりを得て、祈りをもって神に近づくことができ、神のすばらしさを目の当たりにして、神を賞賛することができることを喜ばないならば、その信仰はどこかおかしなものです。「信じる」と言いながら、神よりも他のものを喜び求める者は、福音の本当のすばらしさを理解していないのかも知れません。なぜなら福音は「救いを得させる神の力」であり、人の思いを「自分の願望を叶えること」から「神を喜ぶこと」に変えるからです。