もし私たちが本当に「神のみことばは生きていて、力がある」と信じているならば、どうしてこの神のことばをより深く、より正しく伝えることに熱心になるのではなく、自分の考えや主張を訴えることに熱心になのでしょう?もし本当にみことばを宣べ伝えることによって人々を「キリストにある成人として立たせる」ことができると確信しているならば、どうして私たちは「知恵を尽くして」みことばの学びに取り組もうとしないのでしょう?
神のすばらしさを伝えたいと思うならば、私たちは神のすばらしさを明確に現すみことばを説き明かさなければなりません。キリストのすばらしさを伝えたいと思うならば、私たちはキリストのすばらしさを明確に現すみことばを告げ知らせなければならないのです。時に説教者は、聖書の教えを正しく語ることに献身していないがゆえに、キリストのすばらしさを人々が知ることを妨げることがあります。「主を見たいのに、あなたが前に立っていて主を見ることができません!」と信徒たちが訴えているかも知れません。

主のすばらしさを伝えるために必要なのは、偉大な話術でも、分かりやすい例えでも、おもしろいお話でも、感動を与える物語でもありません。これらのものは真理を伝える助けになるかもしれませんが、絶対不可欠なものではありません。必要なのは、聖書の真理が伝えられることなのです。その真理が伝えられるとき、聖霊はみことばをもって人々を聖め、キリストに似た者に変える働きをなします。なぜなら聖書は生きた、力ある、有益で、信徒をキリストの御前で成熟した者として立たせることができる神のみことばだからです。

教える者は、みことばを学び続けなければなりません。それを怠っては決して正しく聖書の真理を伝えることはできません。聞く者は、教える者がみことばを学ぶことができる環境を整えて上げなければなりません。その学びがなければ自分たちがより主を喜ばせる者へと変わっていくことができないからです。パウロは「みことばを宣べ伝えなさい」と言います。他の手段を選ぶのではなく、主の働き人はこの一時に熱心に励むべきなのです。これこそが教会を導く者たちに与えられている第一の責任であり、教会にとって最も必要なことなのです。