パウロがキリストから託された働きは「キリストを宣べ伝える」ことでした(コロサイ1:28)。これはキリストが彼を救い、永遠の希望を与えてくださったからです。彼はこの働きをせずにはいられませんでした。なぜならこの働きに従事することは神の召しであり、彼の喜びであり、彼に与えられていた責任だったからです。そして「私たち」と記されているように、これは単にパウロだけに与えられていた働きではありませんでした。パウロと同じように主に仕えていこうとする者たちすべてが、「せずにはいられない」働きなのです。
牧師・教師は、教えるための準備をするなかで、「学んで理解したことを早く教えたくてしょうがない」という熱意に満たされていくはずです。みことばの学びを通して、神の真理を知り、それが自分の生涯に大きな影響・変化をもたらすがゆえに、教会員一人一人にその真理のすばらしさを知って欲しいという思いに駆られるからです。

もし私たちが聖書の真理よりも、自分の趣味、好きな映画、応援している球団やチームについて熱く興奮して語るならば、それは私たちがいかに聖書のすばらしさを理解していないのかを証明しているのではないでしょうか。もし私たちが「何を語ったらいいか分からない」と思うならば、それは私たちがどれだけ語るべき事柄に目を向けていないのかを証明しているのです。

講壇は熱心な学びを通して神の真理を理解し、そのすばらしさを味わい、自らの生涯に適用させている者が、精力尽くして熱意をもって語る場所です。そこには本来「つまらない説教」というものは存在し得ないはずです。「無気力な説教」や「マンネリな説教」は矛盾した概念であるはずです。

私たちが感動的な体験を人に熱く興奮して語るように、キリストを通して与えられた救いを私たちは熱く興奮して語るべきです。救いだけでなく、神が与えてくださった私たちをよりキリストに似た者へと変えるすばらしい聖書の真理を語るときに、私たちがそれをつまらなそうに、無気力に話すならば、そこには大きな問題があるのではないでしょうか。

教える「スタイル」は牧師・教師一人一人の個性があります。しかし、主に対する熱意とみことばに対する喜びがそこにあふれ出ていなければ、私たちはひょっとすると教える者にふさわしいかどうかをもう一度吟味しなければならないのかも知れません。特に講壇からみことばを語る者は、パウロの言葉をよく考えなければなりません。

「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。」(1コリント9:16[新改訳])

この働きは重荷ではないはずです。なぜなら説教者にとって主の福音を宣べ伝えること、神のみことばを説き明かすことほど大きな喜びはないからです。