日本の教会は、牧師不足という大きな問題を抱えています。無牧の教会が今後増え続くであろう現状の中で、教会のリーダーとして働いていきたいと願う者はますます減少傾向にあります。確かにヤコブは、「多くの者が教師になってはいけません」(ヤコブ3:1)と警告を発していますが、これは教師として教える働きをすることの深刻さを明確にするための警告であって、教師になることを禁じるものではありません。むしろ、パウロが言うように「『人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。』ということばは真実」(1テモテ3:1)なのです。
これは長老(または牧師)として教会を導く者になりたいという願いを持つことが良いことであるという宣言です。主に喜ばれる者へと成長していきたいと願う男性が、「長老」になりたいと思うのはある意味当然のことでしょう。霊的に成熟することによって主の家である教会を導く者となるのは、子どもが大人になっていくのと同じくらい当然のことだからです。

ではなぜ日本の教会は牧師不足なのでしょう?なぜ教会には自分の時間を犠牲にしてでも主に仕え、主の民に仕えることを喜びとする男性が少ないのでしょう?なぜみことばを教え、人々を導き、人々の模範として生きて行こうと心から願う者がなかなか現れないのでしょう?

聖書は長老として認められるための条件を明示しています。その中には長老にふさわしいとされる人物が「非難されるところのない者」として霊的に成熟した特徴を身に付け、実際の生活の中でキリスト者として模範的な生涯を歩んでいるだけでなく、「教える能力」があり「健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができる」ことが含まれています。つまり長老には「教える賜物」が与えられている必要があるのです。ですからすべての男性が長老になることができるわけではありません。しかし、すべての男性がこのような特徴を自分の生涯に豊かに現してクリスチャンとして成熟したものであるがゆえに、神の教会を任せられるような人物になりたいと心から願っていないとするならば、そこには大きな問題があります。

「牧師」という言葉を聞くと、何か特別な存在であるかのように聞こえるかも知れませんが、牧師とはテモテやテトスの手紙にある長老の条件に適った成熟した信徒のことを指しています。教会に在籍する教会員が成長していく中でこの長老の条件に適う人物になっていない、または長老になりたいと願うことがないならば教会はひょっとすると正しい成長を遂げていないのかも知れません。成熟した教会には、このようにリーダーにふさわしい人物が複数存在するはずです。

聖書をよく知り、非難されるところのない特徴を身につけた信徒たちが日本の教会に多く起こされることを心から願って止みません。