礼拝とは日曜日にだけ行われるものではありません。礼拝は毎日の生活の中で行われるものであり、日曜日にもたれる公同の礼拝は、私たちが毎日の生活の中で行う個人の礼拝の反映です。クリスチャンは自分を贖って下さった神をどこででも礼拝することができ、この神様に栄光を帰するために日常生活の中で礼拝を捧げ続ける者です。礼拝とは神の栄光を現すことであり、そのために私たちはあがなわれ、そのために私たちは生きているのです。
神が私たちを救った目的が「神の栄光をほめたたえるため」であることをパウロはエペソ1章で3度も繰り返して教えています(エペソ1:6, 12, 14)。また別の箇所ではクリスチャンが日常生活において「ただ神の栄光を現すために」すべてのことをすべきであると教えています(1コリント10:21)。ペテロは私たちが神の所有とされた目的に関して「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるため」であることを宣言します(1ペテロ2:9)。イエスは天国民の最優先事項が「神の国とその義」であると明言しています(マタイ6:33)。

このことを実践するためには、私たちが毎日の生活の中で神のすばらしさを具現化し、私たちの言葉、行動、そして態度を通して、神の特徴を現していくことが必要です。ある牧師は礼拝を次のように定義しました。

「礼拝とは、内なる人が、態度、行動、思想、言葉を通して、啓示された神の真理により、賛美を持って、神のすべてに応答することである」

私たち一人一人が毎日の生活の中で、啓示された神の真理に沿って、全生涯を賛美を持って神に応答するならば、そのようなクリスチャンたちが集まって捧げる日曜の公同の礼拝はどれほど主に喜ばれるすばらしいものなるでしょう。逆に、日々の生活において主を讃える生涯を願い求め、神の栄光を現すことを実践しようとしない人々が集まる礼拝は、例え1000人集まる礼拝だったとしても、決して主に喜ばれる礼拝にはならないことを私たちはしっかりと理解する必要があるでしょう。

ダビデが告げ求めたようにすべての信徒が「主の栄光を国々の中で語り告げ」るように(詩篇96:1–6)、祈り求めずにはいられません。