もし聖書が神のことばであり、絶対的な真理を提示する無誤無謬の書であると確信しているならば、私たちは聖書が教えていることに妥協をすることはできないはずです。私たちが生きるこの社会において聖書のことばは様々な形で否定されていますが、その中でも聖書が「罪」だと定める事柄が、罪として理解されなくなっていることを危惧しています。
「合法化された罪」とでも呼ぶべきこの問題は、人が罪を悔い改める機会を取り除く非常に危険なものです。「聖書が書かれた時代にはこれらの事柄が罪として理解されていたかも知れないが、医学・科学が発展した現代ではそれらを罪として定めるべきではない」という反論が教会内でもあがる中で、私たちはもう一度聖書がどのような書物であるのかをしっかりと考える必要があるように思います

罪を「○○病」や「○○症」、果ては「生まれながら」という言葉で説明するとき、正しく問題を理解し、罪を悔い改め、正しい解決をもたらすことをしなくなります。聖書の真理に基づいて問題の根幹に解決をもたらすのではなく、表面的な「必要」や「症状」を緩和することだけに努めるようになるのです。

イエスは「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」と告げます(マルコ7:20–23)。この内側の問題を解決する唯一の方法は「救い」です。心が変えられなければ、本当の意味で外側の変化が起こることはありません。

しかし、救われたからといってすべてが一瞬にして解決するわけではありません。クリスチャンも問題を抱えることがあるのです。だからパウロはエペソの信徒に対して「あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」を教えたのです(エペソ4:22–24)。

「古い人」を脱ぎ捨てることのない人たちに対して、すべての信徒は責任を持っています。パウロはこう告げます。「兄弟たち。 あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」(1テサロニケ5:14)。特に教会において聖書を教える働きを担っている者たちに対してパウロは「寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」と命じています(2テモテ4:2)

教会はすべての人を主の愛をもって受け入れる場所ですが、それは罪を無視することによってなされることではありません。教会は主の愛を実践しようとする人々の集まりであるがゆえに、罪が放置されることなく、正しく解決されるように責め、戒め、励まし、勧め、助けることを努める場所なのです。「合法化された罪」がますます増えていく中で、社会において「罪」と定義されない「罪」に対してどのような態度で接するのかは、私たちが聖書をどれほど信頼しているのかを計る秤となるでしょう。