私たちが語るメッセージは、十年後、百年後に生きるクリスチャンたちが聞いても意味のあるものか、それとも今日聞いて、明日にはもう意味のないものなのかを考えます。もし聖書が時代や文化に左右されない普遍の真理で、すべての人を変える真理であるとするならば、礼拝や様々な集会で語られるメッセージは、一時的な必要を満たすものや、そこにいる人たちを心地よくさせるメッセージではないはずです。聖書的なメッセージを語るならば、そのメッセージは時代や文化に左右されることなく、いつでも、どこでも用いられるものになるのではないでしょうか。
日曜日の朝のためにメッセージを作るのではなく、主の民がいつでもどこでも建て上げられるためにメッセージを語ることができればそれほどすばらしいことはないでしょう。偉大な信仰者たちがすばらしい聖書的なメッセージを私たちに残してきたように、私たちも次の世代にすばらしい聖書的なメッセージを残せれるようにならないといけないだろうと考えされられています。