皆が自分のことだけを考えていては一致は生まれません。ですからパウロは、自分のことだけでなく他の人のことに目を向けるようにしなさいと命じるのです。これはイエスが山上の説教で教えた黄金律と同じことだと言うことができるでしょう。イエスは次のように言いました。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)
聖書の教えがこの言葉に要約できるとイエスは言っています。自己繁栄に関心のある私たちは、自分にとって有利になること、得になることがなされることを願い、それを追い求めて生活しています。私たちは自分のことに関心を持っているのです。そして、イエスはその関心を持っていることを他の人にしなければならないと教えているのです。
聖書は何度も「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と命じています。自分を愛することは私たちが得意な事柄です。しかし、クリスチャンは自分を愛するだけでなく、自分を愛するのと同じだけ隣人を愛そうとする者なのです。自分の事柄だけに関心を持っていれば、人の徳を高めることを考えることはしません。常に自分中心に物事を考え、自分の利益に基づいて善悪を判断し、自分にとって最高の満足を与えるものが最善であると嘯くのです。そのような人の人生に、神に喜ばれる人間関係を見いだすことはできません。なぜなら、そこにはお互いを愛するがゆえに見えるべき調和がないからです。パウロは次のような言葉を記しています。
「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」(ローマ15:1-3a)
これはパウロがピリピの手紙で伝えようとしていることと同じことです。パウロがこのようにクリスチャンに「隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきである」と命じるのは、キリストが私たちのためにそのことをなしてくださり、私たちに正しい、主に喜ばれる人間関係の模範を示してくださったからです。だから、パウロは「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」(ピリピ2:5)と言って、いかに神であるキリストがその栄光を捨て、へりくだって私たちのために仕える者となられ、自分のことだけでなく、私たちのことを顧みられて十字架の死にまでも従われたのかを記しているのです。
パウロは一致を求めています。それはイエスがすべてのクリスチャンに願ったことでもあります(ヨハネ17:20-23)。そのような人間関係を私たちが教会の中で構築していくならば、イエスが言うように、この世は神が御子を遣わされたこと、そして、神が御子を愛されたようにクリスチャンたちを愛していることを知るようになるのです(ヨハネ17:23b)。
パウロの喜びであったピリピの教会にも、分裂という危険が迫っていました。人が自分の罪深さを軽視し、ほかの人たちを侮り、自分の喜びを探求することに焦点を当てて生きるとき、分裂という地雷原に足を踏み入れていることを私たちは熟知していなければならないのです。逆に、人が自分の罪深さを正しく認識し、他の人を尊び、人の徳を高めることを探求することに焦点を当てて生きるなら、そこには一致というすばらしい人間関係に満たされた祝福があるのです。