私たちから一致を奪うものは「自己中心」だけではありません。パウロは一致を保つために「うぬぼれてはいけない」と命じるのです。「虚栄」と訳されている名詞は、新約聖書の中でもここにしか使われない単語で、二つの言葉の合成語です。形容詞の「ケノス」(空の、中身のない、無意味の)という単語が、名詞の「ドクサ」(栄光)という言葉に加えられてできているこの言葉は、「虚栄」と訳される通り、実質の伴わない、うわべだけの栄誉を表しています。根拠なく自分自身を過大評価し、慢心している姿を指摘しているのです。
自己中心は個人の目標を追求する利己的な思いを指していますが、うぬぼれは個人の栄誉と賞賛を追求する利己的な思いに言及しているのです。うぬぼれ高く、慢心している人物が求める一致は、自分が中心にいる一致です。つまり、自分が常に正しいと考えているが故に、他の人が自分に一致することが当然であると考えているのです。

虚栄という概念は私たちに高慢という言葉を思い起こさせます。他の人を見下し、自分の意見を主張し、時に出しゃばり、人から注意されることを否み、いかに自分が優れた人物であるかを誇張する姿が頭に浮かぶことでしょう。優れた人物であることを認めてもらうためにあらゆる努力を惜しまないこのような人物は、真のへりくだりにかけた人物であり、自分の決めた基準が一致のための絶対的な基準であるとして、それを曲げようとはしない人なのです。しかし、同時にこのようなうぬぼれは、高慢さに現れるだけでなく自己卑下という形でも現れることが往々にしてあります。自分の決めた基準を絶対視し、自分がそれ以下であることを必要以上に強調し、自己憐憫に陥る姿は、まさに虚栄心に満ちた人物の姿です。高慢があらゆることを過大評価することであるならば、自己卑下はあらゆることを過小評価するまさに両極端の姿なのです。

これらのどちらがあったとしても、そこには一致は生まれません。ある人は高慢の中で「私にはそんなことをすることはできない」と言って一致を拒み、またある人は「誰も私を入れてはくれない」と言って、同じように一致を拒むのです。このような人物が一致を持つのは、自分の基準に他の人が沿っているときだけです。こうして自分の意見が正しいと主張し続けるが故に、虚栄のあるところには一致がなくなっていくのです。

パウロはガラテヤの手紙の中でこの箇所と似た内容のことを話しています。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。(ガラテヤ5:25-6:4)

肉の欲を具現化していくのではなく、御霊の実を実らせて生きていくキリスト者は、御霊に導かれて生きていくことが必要です。そのことを実践するに当たって、パウロは「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないように」という勧めをしています。ここでも、自分の意見を主張し、それを曲げることがないが故に、一致の欠如という危険があることをパウロが訴えていることを見て取ることができます。パウロはさらに3節で「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」と続けます。他の人と自分を比較して自らを立派であると考えたとしても、正しく自己吟味をすれば、誇るべきところは何一つなく、あらゆることは神の働きの故になす事ができたものであることに気づくのです。虚栄は、自己虚偽であり、自己暗示です。これは私たちが常に気をつけていなければならない非常に陥りやすい誘惑です。このような思いのあるところに主が求める一致が存在できないが故に、私たちは注意し続けなければならないのです。