互いの間で良い関係を持ち、特に一致を生み出すために避けなければならないこととして、パウロが最初に教えることは、「自己中心に基づいて何もしない」ということです(ピリピ2:3)。すでにパウロが教えた事柄を考慮すれば、自己中心があるところに一致が生まれないことは明らかですが、ここで私たちが関心を向けるべきことは、この「自己中心」と訳されている言葉の意味です。
ギリシャ語の「エリセイア」というこの言葉は、新約聖書に7回登場します。パウロとヤコブだけが使うこの言葉は、本来「競争心」または「敵対感情」などという意味を持つ言葉です。パウロはこの言葉を、ピリピ1:17で使っています。そこでは「党派心」と訳されていますが、純真な動機からではなく、パウロに対する敵対心や対抗意識を持ってキリストを宣べ伝えている人たちのことを指しています。 へつらい、だまし、言いがかりをつけ、論争を展開し、あらゆる手段を用いて自分を有利にしようとする人物を指す言葉として用いられていたのです。
興味深いことに、原文の3節前半部分には「すること」という動詞がありません。ここでパウロが動詞を使わないのは明確な意図を持ってのことであると考えるべきでしょう。パウロはこのような行動を「するかしないか」ということを問題にしているのではなく、このような態度が「あるかないか」ということを問題にしているのです。自分のことを考えて敵対感情を持つが故に、分裂という結果を生み出す自己中心は、実際に行動として表れることが禁じられているだけでなく、そのような思いが心の内にあってもいけないと命じられているのです。
ほかのすべての罪と同じように、自己中心も心の中から始まります。たとえ、具体的に表立って表現されなかったとしても、利己的な思いに支配される可能性があらゆる人にあるのです。このような心の思いは、往々にして怒りや、ねたみなどによって人を内側からむしばみます。それが表に現れると、あっという間に教会は分裂の嵐に巻き込まれてしまうのです。
このような教会の最たる例はコリントの教会でしょう。「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言って教会は分裂しました (Ⅰコリント1:10-13)。確かにパウロやペテロやアポロ、ひいてはキリストといった各グループの忠誠の対象は、尊敬を受けるにふさわしい者たちでした。しかし、これらの人物への尊敬と賞賛の故に彼らは分裂していたわけではなかったのです。彼らは自分たちのリーダーとしていた人物の名を用いて、自分たちがいかに優れた者であるのかを誇示したかっただけでした。ですからパウロは彼らに対して厳しい言葉を投げかけています。
「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(コリント3:1-3)
このような分裂のあるところに、真のクリスチャンの姿を見ることはできません。肉の欲の赴くままに、一致とは反対の結果をもたらす自己中心はクリスチャンの特徴からかけ離れたものなのです。クリスチャンは自分を捨てた者です。クリスチャンは自分ではなく、神と隣人を愛することに熱心な者です。もし私たちが「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(Ⅰコリント 10:24)というパウロの言葉を実践するならば、そこには一致が生まれます。自己中心はまさにその反対の行為なのです。