ピリピの教会が抱えていた問題の一つは、個人的な不一致から起こる分裂でした(4:2)。そこでパウロはこの手紙の中で、一致についての教えを具体的になしています。その中でも中心的な部分がこの2章の冒頭部分です。パウロはここでクリスチャンが持つべき一致について話をしていきます。そしてこの教えは、一般的な人間関係においても適用することができるいくつかの非常に重要な原則を私たちに教えています。
最初に「こういうわけですから」とパウロが記すのは、ここで彼が語ろうとしていることが1章の終わりに記していたことと深い関連があるからです。パウロは1:27で「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており」と書いています。これはピリピのクリスチャンが「キリストの福音にふさわしく生活」するとき、彼らのうちに見て取ることができる一致についての説明でした。パウロが後にピリピを訪問するとき、彼は教会員たちの生き方が一致に満ちたものであることを聞くことができると言ったのです。

ピリピのクリスチャンたちは、確かに救いを受け、主のものとされ、熱心に忠実に主に喜ばれる者として生きていこうとしていました76。真の信仰者であるがゆえに、彼らは主が求める一致を願って生きることをパウロは知っていました。そこで、「こういうわけですから」と言って2章の言葉を切り出すのです。

「こういうわけですから、もし・・・」とパウロは続けています。ここでは4つの「もし」が列挙されていますが、私たちはこの言葉を読むときに一つ注意しなければならないことがあります。通常私たちが「もし〜なら」という言葉から理解することは「仮に〜があるとするなら」というものです。そのように考えると、ここでパウロが言っているのは「仮に、キリストにあって励ましがあり、仮に、愛の慰めがあり、仮に、御霊の交わりがあり、仮に、愛情とあわれみがあるとするなら」となってしまいます。しかし、パウロは「これらがあるかどうか分からないけれども、もしあるとするなら・・・」と言っているのではありません。原文を見るとここで使われている仮定表現は、実際にその通りであることを前提とする仮定表現で、「このことを話す上でもし〜であるならということを前提としましょう」と訳すことができる表現が使われているのです。つまり、パウロは「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみが確かにあるという前提に立つなら・・・」と言っているのです。さらに2節に記されている帰結分が命令文であることから、この仮定表現がクリスチャンにとって現実であることを読み取ることができるのです。 クリスチャンは一致を何よりも望んで生きる者であるはずです。なぜならそれが主の福音にふさわしい、神が求める生活であり、神がそのように生きるための動機付けをしてくださっているからです。

ピリピのクリスチャンは、キリストのうちに励ましを受け、愛の慰めを与えられていました。パウロ自身がそのことを彼らになしていただけでなく、神ご自身が聖霊を通して励ましと慰めを与えていたのです。またクリスチャンに内住する聖霊の交わりと、神の家族であるがゆえに起こる互いの間に見ることができる愛情とあわれみがあったのです。それはまさにクリスチャンであるがゆえに持つことができるすばらしい祝福であり、一致への動機となっていたのです