長い年月教会に通っていても、霊的な知識が救われたばかりの人とそれほど変わらないとするならば、そこには大きな問題があることを私たちはしっかりと理解しておかなければなりません。何度も繰り返し、同じ信仰の基礎的なことがらを教えられなければならないならば、それは本来クリスチャンとしてあるべき姿ではないことを私たちは知らなければなりません。
ヘブル人への手紙の著者は、信仰生活を長く送りながらも人を教えることができる者となるのではなく、いつまでも初歩的な事柄を教えられ続けなければならないような人たちに厳しい警告の言葉を与えています。5:11で著者は話すべきことをたくさん持っていながら、それを説き明かすことが困難だと告げます。この困難さは、著者の説明能力や知識の不足から来るものでも、内容が深く難しすぎるからでもありませんでした。原因は読者たちの「耳が鈍くなっている」ことにあると言うのです。ここで指摘されていることは、聴力が落ちているという話ではありません。聞くことに関して怠惰であることが問題とされているのです。
この手紙の読者たちは、本来ならば教師になっていてもおかしくないほど、長い年月クリスチャンとして生活してきたにもかかわらず、霊的な知識を蓄えて成長するのではなく、いつまでも信仰の基礎を繰り返し教えられなければならないような状態にありました。彼らはいつまでも「乳を必要とする」ものであり、「乳ばかり飲んでいる」がゆえに、「義の教え」に通じていなかったのです。初歩的な教えしか理解することのできない、教える者へと成長していない者は霊的な新生児であり、「義の教え」を経験していない者だと著者は断言しています。
このような人は霊的に成熟した者(「おとな」)ではないがゆえに、いつも様々な教えや、世の誘惑、困難な状況などに左右されて、「良い物と悪い物とを見分ける」ことができません。だからいつまで経ってもキリストに似た者として、堅く信仰に立って模範を示しながら生きていくことができないのです。
もちろんすべての人が教会において「教師」になるわけではありません。しかし、すべてのクリスチャンは教える働きに必ず携わります。男性は、夫として妻を教え導かなければなりません。親であるならば、子どもを教え諭さなければなりません。年配の女性は若い女性を教える責任があります。すべての信徒は互いに教え合うことを命じられています。何よりも大宣教命令を実践するならば、私たちはイエスが教えられたことを自分よりも霊的に未熟な者たちに教えていかなければならないのです。
私たちはヘブル人への手紙の著者の警告に耳を傾けなければならないのではないでしょうか。私たちの教会に、本来ならば教師になってもおかしくないほど、聖書の話を聞いていながら、実は一切霊的に成熟していない、良い物と悪い物を見分けることのできない、あらゆる波風に吹き流されてしまう者たちがいるならば、それは教会にとって大きな問題です。教会が主に喜ばれる成長を遂げるためには、その教会を構成する一人一人の信徒が霊的に成熟していくことが不可欠だからです。
みことばを知ることによって私たちは正しいこと間違ったことを理解し、それを実践し続けることによって一歩一歩成長していきます。一人でも多くの信徒がそのような歩みを確かにしていくときに、日本の教会はパウロが言うような「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」でしょう。いつまでも幼子でいることをよしとせず、成熟した者として歩むために私たちは聖書を学び、学んだことを生きて行かなければならないのです。