何かに祈ったことがない人を探すことが困難なほど、日本人は祈ることをする国民です。それゆえに特に日本のクリスチャンには祈りに関する大きな問題があるように思います。確かに祈りの対象(誰に対して祈るのか)は変わったかも知れませんが、祈る態度や祈りに関する理解が、救われる前と全く同じでは、聖書的な祈りを捧げているとは言えないでしょう。
祈りとは要求を神に突きつけることでも、願望を神に聞いてもらうことでもありません。ましてや、私たちが最善と考えていることを神にしてもらおうと懇願することでもありません。確かに必要があるときに、「必要を与えてください」と祈るでしょう。病気の時には「病を癒やしてください」と願うでしょう。しかし、もし祈りが自分の願いを神にかなえてもらうためにしているのならば、それは未信者が神々に祈っている祈りと大差はありません。
祈りは主権者であり、愛をもって最善をなしてくださる神に対する信頼に基づいてなされるものです。私たちが持っているあらゆる必要を、祈る前からすべて知っておられる神が最善をなさってくださることを理解し、必要の中にあっても神に満足し、感謝し、賛美するのが祈りなのです。
最近何度か「祈りさえすれば与えられる」とか「祈っていれば大丈夫」というような言葉を耳にしました。「時間をかけて熱心に祈り続けることによって自分たちの願いが聞かれる」と考えるならば、私たちは大きな間違いを犯していることに気付かなければなりません。神は私たちの祈りによってご自身のみこころ・計画を変更することはありません。どれだけ熱心に祈ったとしても、主権者である神が世界の基の置かれる前から計画された事柄を曲げることはないのです。
私たちが祈ることによって自分たちの思っている最善を常に与えられるとしたら、私たちは不幸にしかならないでしょう。なぜなら私たちは自分にとって本当に最善なことがなんなのかを知らないからです。しかし、それをご存知で、私たちがキリストに似た者となるためにすべてのことを働かせている主は、時に私たちの気付かない・望まない最善を与えてくださるのです。
だから、このことを知っているクリスチャンは、「主のみこころがなりますように」と祈ります。自分の願いが神の計画になるように祈るではなく、神の計画が自分の願いになるように祈るのです。神に対する信頼に基づいて祈る信徒は、このことをよく知っているがゆえに、自分の願いが実現してもしなくても、祈りに基づいて満足と感謝をもった生涯を送ることができるのです。「自分にとって最もすばらしい計画が神のみこころのままになされている」という確信の下に、自らの願いを神のみこころに沿わせて、平安を持つことができるようになるからです。