神は私たちが祈っても祈らなくても、すべてのことを知っておられるので、私たちは自分の問題や願いを神に告げ知らせるために祈る必要はありません。祈りは神の知識の足りないところを補うためにあるのではありません。祈りは私たちが神をよりよく知るためにあるのです。神との祈りという交わりを通して、私たちは神の愛の深さを知ります。必要を訴えることを通して、神の計画の偉大さに気づき、困難の中でも神の素晴らしさを覚えることによって感謝することを学び、あらゆる必要をご自身の計画に沿って満たしてくださる神を心から礼拝するのです。

私たちが祈るのは、私たちの願いを神に知ってもらうためでなく、神の計画を私たちが正しく理解するためです。自らの必要に基づいて私たちは願いますが、それは願っていることを与えてもらうためというよりも、その願いに対して神が計画されていることは何かを私たちが正しく理解するために願うのです。私たちが神を信頼しているがゆえに、また神の素晴らしさを理解しているがゆえに、神が私たちの祈りに「はい」、「いいえ」、または「まだ」と答えられるときに、私たちは心からの感謝と賛美をもって神を讃えるようになるのです。

祈りの中で私たちは自分たちが主権者にならないように気をつけなければなりません。祈りは私たちの願いを叶えるための道具ではありません。神は私たちに仕えるランプの精ではないのです。自分の願っているとおりのことが起こらないときにいらだちを覚えるとするならば、それは祈りの中で神が自分の要求を聞き入れるべきだという、主従関係の逆転した理解の下で祈っていることの証明なのかも知れません。神の主権の前に跪き、主の計画以外のことが起こらないことを理解し、神が常にご自身の栄光と私たちの最善のためすべてをなしておられることを認めて祈るのです。もし私たちが「あなたのみこころがなされるように」と心から祈っているとするならば、祈りの答えがどのようなものであったとしても、確かに神のみこころが全うされていることを感謝し、喜び、平安の内にすべてのことにおいて主を讃えるようになるのです。「この願いが叶いますように」という利己的な祈りではなく、本当の意味で「主のみこころがなされますように」という祈りを私たちが捧げるようになれば、もっと満ち足りたクリスチャン生活を送れるようになるのではないでしょうか。