聖書は私たちに罪があることを明確に示しています。そして、その罪を正しく理解することなしに、私たちは福音を理解することはないのです。J. I. パッカー師は「罪を自覚するということは、自分をあらゆる面での失敗者であると感じることだけではなく、自分を、神に背き、神の権威をないがしろにし、神を無視し、神に敵対するようになり、神との関係を損なってしまっている者と理解することを意味するのである。」と言います。この理解なしに、福音を正しく知ることはありません。その絶望があって初めて救いの真のすばらしさを知るようになるのです。

現代日本のキリスト教会は、未信者が「感じている必要」を満たすために福音を語る傾向があるようです。「愛されていること」「自分に価値があること」「幸福になること」「天国に行くこと」はすべての人が実感したい、実現したいと願っていることでしょう。しかし福音の真の目的は、人々の自尊心を高めることでも、永遠のいのちを保証することでも、幸福を約束することでもないのです。
私たちは、未信者の抱えている「本当の必要」について語らなければなりません。人が持っている真の必要は「罪の赦し」であり、「神との和解」です。そして福音の真の目的は「神の栄光を無視して生きてきた者が、神の栄光を現して生きる者に変わること」なのです。
「あなたは主の前に全く価値のない者である」や「あなたは神の怒りの対象でしかない」という言葉を聞くことが少なくなりました。しかし、人が持っている罪の罪深さを正しく理解することがない限り、神の愛がどれほど深く、神のあわれみがどれほど大きく、キリストによってなされた贖いの業がどれほど尊いものであったのかを正しく知ることはできません。
私たちは神の働きがなければ人が福音を理解することができないのを忘れてはいけません。パウロは「ユダヤ人にとってはつまずき、 異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、 ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、 召された者にとっては、 キリストは神の力、 神の知恵」(1コリント1:23–24)であると告げます。罪を指摘され、責められて喜ぶ人は誰もいません。しかし、罪に関する正しい理解がなければ、そこには福音に関する正しい理解もないことを私たちはしっかりと覚えていなければならないのです。
私たちは「救われて欲しい」という願いのゆえに、未信者が受け入れやすいメッセージを作り出さないように注意しなければいけません。なぜなら救いは、人の選択によってもたらされるものではなく、神の選びによってもたらされるものであり、受け入れがたい「罪の問題」が明確にされない限りは、「神に対する正しい応答」も生まれないからです。